『同じ下着を着るふたりの女』を鑑賞。

HP掲載のあらすじ
30歳を目前に控えたイジョンと母のスギョンは、ふたりで団地に同居している。若くしてシングルマザーとなったスギョンは幼い頃から娘に辛く当たり、そんな母に対してイジョンも長年積み重なった恨みを隠しきれずにいた。ある日、買い物に訪れたスーパーの駐車場で二人はいつものようにケンカになり、車から飛び出したイジョンを母スギョンが轢き飛ばしてしまう。スギョンは「車が突然発進した」と警察に説明するが、イジョンは故意の事故だと疑わず、母を相手に裁判を起こす。そんななかイジョンは、会社に新しく入社した同僚ソヒの気遣いに触れ、彼女に癒しを求めるようになる。一方スギョンも、恋人ジョンヨルとの再婚の話が進んでいた。ようやくふたりはそれぞれの人生を歩むかに思えたが−
母と娘の関係性の行方を描いた作品。イジョンがユニットバスの洗面台で手洗いする洗濯物のなかから渡された下着をひょいと手に取ったスギョンは、それを慣れた手つきで足にひっかけ出かけていく。よもぎ蒸しの店を経営するスギョンは女たちの下半身を温めてきたかわりに、女たちが口から吐き出す悪口を身体に吸収してきたのだと吐露する。
口を開けばというより、同じ空間にいるだけで反目し、反発し合うふたり。女手ひとつで娘を育ててきたがなかなか家を出ない娘にイライラを募らせるスギョン、母から精神的にも身体的にも(裁判で読み上げられるスギョンにあてた昔の手紙から殴打されていたことがうかがわれる)虐げられてきたが、働いた金が貯まらずなかなか家を出ないイジョン。
このふたりの暴力的な依存関係は共有される下着に象徴されているのだが、これは家父長制や「イエ」「家族」という枠組より密接で有機的なものに思える。
それはまるで癒着した臓器のように、皮膚の上に張り付いたかさぶたのように、剥がそうとしても容易には剥がれない。剥がすと明らかな痛みを伴い、劇中に幾度か出てくる月経の描写のように血が流れる。
スギョンは恋人といるときだけは幸せそうだ。娘から分離された存在として一人の女として愛されている実感。ゆらゆらとプールに浮かびきらきらとした陽光が彼女を照らす。自分が自分として世界に存在するかけがえのない時間。
娘の卒業式に出席しなかったスギョンだが、恋人の娘ソラの卒業式には出席するようだ。もちろんソラのためではなく、恋人のためだろう。恋人との再婚話は進み、ソラとの仲は縮まらない。自分を一番に愛してくれると思った恋人はあることで気分を害した娘に謝るようスギョンに促し、「父」としての振る舞いを見せ、スギョンを失望させる。
一方、イジョンは勤め先の女性を心の拠り所にし始めるが、苦しみながら家を出たと自負する彼女から突き放される。
自分の下着を選ぶ最後のシーンが意味するのは母からの分離だ。母と娘という傷つきやすく離し難いテーマの痛々しさを、堂々と描いた作品だった。一方で、この作品の先にはなにがあるのだろうという疑問と、期待とが残る。キム・セイン監督はドラマ版『大都会の愛し方』の演出を担当した監督4人のうちのひとりとのことで、こちらも日本での配信が待たれる。